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東北の旅4~七五三掛部落から大日坊へ

更新が遅くなってしまいました。そして書くリズムが途切れてしまいまったので、ここからちょっとばかし、文体を変えて書こうと思います。はい、森風に。~~~~~~~~~~~~~~

大日坊も先ほどの注連寺と同じく、雪囲いで被われていました。私は本堂の威容など判らないままに囲いの中をちょいと覗き、‘おじゃまします’と言ったところ、受付に数名の人が居られるようで、話し声さえ聞こえないものの、どういうわけかにぎやかな感じがしました。
最初、雪囲いの隙間から差し込む日差しがそう思わせるのかと思いましたが、これはこのお寺特有のものらしいことが後になって解りました。

大日坊は注連寺の静かで厳かな雰囲気とは違い、全く対照的な寺でした。

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ここまでの経緯を先に書きます。
最初注連寺を訪問したとき、私はしばらくこの寺で時間をつぶそうと考えていました。しかし、丁寧な案内や説明をしてもらったにもかかわらず、注連寺拝観にたいした時間はかかりませんでした。
このまま真っ直ぐバス道に下りれば一本早いバスに乗れるかと考えましたが、少しもったいないような気がして、寺の裏山の方へ少し上ってみようと思いました。

思いリュックを背負って寺周辺の坂を上ったり下りたりしていると、後ろから来た車から

「乗りますか?国道まで出るんでしょ?」と声が掛かりました。

若い娘ならいざ知らず、私はオバハンなので何の警戒もなく男の人2人が乗る車に同乗させてもらいました。
私はこのとき七五三掛周辺を散策してみようとも考えてましたので、国道に出る手前で下ろしてもらおうと思いましたが、ちょうど昼食時でもあったので

‘この辺りで食事のとれる所はありますか’と聞いてみました。

実を言うと昨夜から何も食べていなかったのです。すると

「私らも今から食事へ行くところです」ということでした。

結局、国道まで送ってもらうどころか昼ご飯までご一緒してしまったのです。まあそれは良しとして、もとの大網のバス停まで送ってもらったところ、まだ次のバスまでかなりの時間がありました。私は七五三掛の端っこから大網にかけてを散策しながらも、先ほど食べた玉コンニャクが結構腹を満たしているせいもあって、最初予定には入れていなかった大日坊まで足を伸ばすことにしたのです。

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大日坊本堂に入ると、日本人離れした目鼻の奥様がいらして、灯油ストーブをあっちからもこっちからも、3,4つ運んでこられました。私は、

‘寒くないのでよろしいですよ’と遠慮したのですが奥様は

「いえいえどうぞどうぞ」

まるで本来の観音様はこうではなかったかと思えるようなお顔をしておっしゃるのです。

実際、山裾の人気のない村を散々歩き周り、ここまでの急坂を登って来た私は結構な大汗を掻いていたのですが、せっかくの奥様の御行為をありがたく頂戴し、それからご本尊の前で頼んでもいない祈祷までして頂いたのでした。

お祓いが終わり顔を上げると、私の横に副住職が立っておられました。色白で上品なお顔をして

「今からご説明をさせて頂きますがお時間はよろしいですか」静かに問われるので、

‘次のバスに乗らないといけませんので、30分ぐらいでお願いできますか’と答えると

「バス停まで5分もあれば行けるので十分でしょう」

ということでした。

寺までの上りは私の健脚15分程度だったので、下りは5分かなと思いました。しかし私の心の内ではバスの時間が少し心配でもありましたが。




副住職のお話しはお寺の歴史に始まり数々の宝物の説明、特にその中で春日局が家光の健康と将軍跡目決定を願い納められた奉書がありました。
それまで私はただ聞いているだけでしたが、副住職が

「竹千代」とおっしゃったのでおもわず

‘家康のことですよね’と言うと

「いやいや、竹千代は家光のこと」と。

(・・・後で調べたところ、徳川家将軍の幼名って代々にわたり竹千代なんですが、知ってらしたか知らんかったかはお互い様)


副住職は最初ゆっくりと話されていましたが、だんだん速くなってきて、

「あれも話したいのに、これも話したいのに」と言いながら、

廊下に置かれた波分大聖不動明王に私が関心を示しているにもかかわらず

「即身仏さんを見てもらわな」

と、即身仏が安置されている部屋に私を急がせるのです。





即身仏にお成りになった真如海上人様は、赤い毛氈の敷かれた台座の上にいらっしゃいました。
副住職はここで即身仏とミイラの違いを詳しく教えてくださいました。

まず、ミイラは死後に他者の手によって処理を為されるものであること。その時に防腐処理に使われる薬剤をミルラといって、それが語源になっていると。
そして即身仏は自力によって、内臓防腐のために漆を溶かした水を自ずから飲む。つまり生きながらにして成されるものであると。ここのところがミイラとは違うんだと強くおっしゃられました。


簡単にまとめさせて頂くと、即身仏に成るには五穀一切を断ち木の実、皮を摂る木食行に始まり、漆を飲んでは自分の力でミイラの状態に近づける。そして入滅の際は土穴に入り座った姿勢のまま経を唱え、そして鈴を鳴らす。

外部にいる者はその鈴の音を聴き、彼がまだ存命だということを知る。つまり鈴の音はまだこの世に生のある証になるわけですが、その音が聞こえなくなり入滅と判断されてもすぐに土穴から出さず、そのあと何千日だったか忘れましたが決められた日数を経て、そこで初めて地上に出されるとのことです。
仏教の行はいろいろあるようですが、これほど過酷な苦行があるのですね。




昔、大日坊が火災にあったときに、あと2体あった即身仏が焼けてしまったそうです。
副住職が2つの黒い位牌を手にし

「お位牌になってしまわれたのですよ」

とおっしゃるのを聞いて、私は即身仏がどういうものかがようやく解ったように思いました。つまり、現存している即身仏はまだ死んではいないということです。

どこの寺でも秘仏というと数年に一度の公開しかされませんが、先ほどの注連寺にしても、この大日坊にしても、どうしてこんな大事な仏をいつでも拝観できるような形で置いてあるのだろうと、そしてこちらが見せてくれなど言わないのに、気軽に見せてくれるのだろうと、私は不思議に思っていたのです。

生きながらにして仏になったので、その姿を見せてこそ人々を教化していく力があるのでしょう。



長くなるのでこのへんで、、、続く。

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写真は川の水が地表面を流れないようにバイパス用のパイプ、だと思います。
ただいま七五三掛村は地滑り災害のため住民の方が避難されています。私が行ったときも工事関係の方があちこちに立っておられ、安全のために誘導して頂くなど大変お世話になりました。
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七五三掛村、といっても注連寺近辺以外は立ち入り禁止区域となっているので、私が散策した場所は村の端っこの方から大網地域だったと思います。

遠望~月山が写っています。
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中央部、雪山の下にコンクリートの枡のようなものがあるのですが、わかりますか。
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どの家も雪解け水を利用しているようです。
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綺麗な水でした。
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早く住民の方が元の家に帰れますように。
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by hiruu | 2010-03-20 04:19 | 日記