これは議論か。

昨日いっしょにフランス料理を食べた彼女は、実に生き生きと毎日を有意義に暮らしている。辛いことも前向きに捉え、毎日を明るく暮らし、円満な家庭を築き、二人の子供さんも素直に育っている。こんな彼女を支えているもの、これがあの創価学会なんだ。彼女にとってこの団体の存在は大きいし、私も「良いものに出会えて良かったね」、と言ってあげている。
何にしろ、個人にとって心のよりどころとなるものが在る、というか有ることは、その人にとって幸せなことだと思う。
人は、自分が幸せなら他者に対しても優しく寛容になれるし、それは他者にとってもありがたいことで、このくり返しは幸福の連鎖という形でつながっていくんだろうと思う。
だから、どんな宗教であっても、その団体がどんな教理をといていても、幸福を目的としている限り、私は反対しないつもりだ。

でもね、私には今のところ必要ないんだよね。

聖教新聞を読んで欲しい”と言われたので、私はこんなふうに言ったんだ。
「私は文章を批判的に読む癖があるので、今のところ創価学会に対して何の批判も持っていない私が、新聞を読んだがために批判を持ってしまったら、せっかくのあなたの好意が無駄になる、というより、マイナスになってしまうでしょう?だから、読まないわ」

ということで、どうしても私を団体に加入させたい彼女は、“ランチに友人をひとり連れて行ってもいいか”と聞いてきたのだ。私は、おそらく二人から強く勧誘を受けることになるんだろなと思ったが、「いいよ」と答えた。

彼女のお友達は、実にはつらつとした年配の女性で、女手ひとつで子供3人を立派に育て上げた人だった。このお友達にとっても、創価学会の存在は意義のあるものだったのだろう。

でもね、私には今のところ必要ないんだよね。

それで、ランチ時の私の対応なんだけど、、、。ちょっとここで反省をしたいと思う。

私自身、二人から勧誘を受けるであろうことはわかっていたはず。それに、二人の目的もわかっていたはず。なのに私は、加入する気持ちなんてこれっぽっちもないのに、楽しげに料理を食べ、二人の話をうんうんとうなずきながら、聞き流し、時には話を合わし、時には別の方向へとそらし、二人を困惑させていたのではなかったか。
こういう私の態度は、相手にとってとても失礼なことじゃなかっただろうか。

はっちんさんのブログに、議論と言い争いは似て非なるもの”ということが書いてあった。
『議論は、相手も自分もない・・・あるけどない。
自分の意見も、相手の意見も、お互いに影響しあって変わって行く。』
これが議論だと。
私と彼女と彼女のお友達との話し合いは、決して議論ではなかった。私がはじめから加入の意思を持たなかったというよりも、相手を受け入れる入れ物を用意していなかったいじょうは、決して議論など成立しなかっただろう。

二人は私を勧誘できなくても、せめて議論をしたかったのではないだろうか。なんて思うと、とても悪いことをしたような気持ちになった。

創価学会・・・政治への介入がなければもっと評価上がるんじゃないだろか。
社会的に問題はなくても、やはり政教は分離してなくちゃと思う。
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by hiruu | 2004-11-27 02:36 | 日記